四角い電脳ジャングル 第三回/UWFとは何だったのか(続)3.佐山から前田へ・・・最強からスポーツに 前田が新日に出戻り、猪木が逃げ回っていた頃、UWF革命の実質的な指導者だった佐山聡は、稀有壮大なんだけれど、その分とっても地味な作業を始めていた。「見せる」だけの格闘技ではなく、「する」ところから始める格闘技の創設。つまり、一旦プロレス業界から完全に足を洗い、プロレスラーとの縁を切って、いちから佐山がUWFで目標としていた理想の格闘競技を作ろうっていうわけだ。競技はシューティング(修斗)と名付けられた。佐山自身は、現役を引退し、ルール整備、組織整備、そして選手育成に専念することになった。 最初は順調に見えた。格闘技雑誌には選手の成長を喜ぶ佐山の顔がよくでていたし、「ホンモノの格闘技」たるシューティングの技術理論も度々紹介されていた。そしてプロ部門の設立。しかし、さあこれから、というところになって動きが止まった。お客さんが増えないのである。後楽園ホールで試合をやっても、見に来るのは選手の関係者が大半、というアマチュア状況から抜けられないのである。一方で、前田UWFは、社会現象というまでのブームを引き起こしていく。鮮やかな対象だった。 原因は様々言われた。佐山の現役引退による「有名人」の不在。ヘビー級クラスのガタイの大きい選手がいなかったこと。そして、何より、佐山UWFが、前田UWFとして拡大・進化を遂げていたことによるバッティング。 だが、考えてみれば、これはちと妙な話ではある。確かにUWFという団体のエースは最初の最初から前田日明だった。でも、第一次UWFにおいて革命を計画し、実際に行動を起こしたのはあくまで佐山である。前田はそれについていっただけだ。ということは、前田UWFより佐山シューティングの方がよほどUWFのそもそもの理想に近いわけであり、よしんば最初は知った顔が多い前田Uに客が集まったとしても、次第にUの元祖としての佐山シューティングの魅力に気が付かなければおかしい。 ただし、これには条件が付く。もし、本当に、佐山シューティングが、佐山UWFの進化形だったならば、という条件である。 無論、佐山本人は、シューティングは正しく第一次UWFの進化形であったと思っているだろう。革命、とはいっても、所詮は既存のプロレス団体出身者をかき集め、プロレス団体という形をとっていた一次Uからは明らかに一段階進化した、ピュアそのもののUWFだ、と。 この観点から前田Uの人気(その裏面である佐山シューティングの不人気)の原因を考えれば結論は一つである。すなわち、前田Uは、UWFという名前であっても、実のところ、ほんとうのUWFではない。既存のプロレスと同じ「メルヘン」な団体なのだ。メルヘンだからこそ人気があり、客が集まるのだ、と(実際こういうことを当時佐山は言っていた。とはいえ、その後「あれは、売り言葉に買い言葉で仕方なしにいってたんですよ〜。ほんとはそんなこと言いたくなかったんですよ〜」と打ち消しにやっきになっていたりもしたが)。 これは破滅的な結論である。結局、UWFは、「マジに勝負してたんじゃお客さんは集まらない」というプロレスのテーゼを破ることはできない、ということになるからだ。つまり、どこまでいっても、馬場さんの勝ち、ということである。 結論を先取りしていえば、この考えは間違っている。 なぜなら、メルヘンの世界に囚われているのは、実のところ、前田Uというよりも、佐山シューティングの方だからだ。別にシューティングが八○長だなどという恐ろしいことを言おうとしているのではない。そんなことはありえない。 じゃあ、どこがメルヘンなのか。それは佐山シューティングの目指している方向性が、である。もっとはっきりいえば「最強」という目標が、だ。 最強、という概念自体が究極のメルヘンであり、幻想、気の迷いに過ぎないということをここでくだくだしく述べるのは止めておく(興味がある方は、この連載の第一回目を読んで欲しい)。ポイントは、佐山が、あまりに几帳面に最強幻想をおうあまり、どんどんとシューティングを最初のUWFから違ったものにしていった、ということだ。 ロープ・エスケープ、ロープ・ブレイクの廃止。 シューティング・グローブの開発。 グラウンド打撃の解禁。 これらは、全て、最強を求めての試行錯誤が生みだした、UWFにはない、シューティング独自のルールだ。目的は単純。「路上の現実」(ちなみにこれも幻想)と照らし合わせ、そもそものUWFルールのうち、それに合わない(気がする)ところをばしばし変更していったのだ。 路上では関節が一旦決まったら逃げられないだろ。ならエスケープなんてなしにしとこ。やっぱ拳で顔面殴るだろ。そしたらパンチができるようにしないといけないな。喧嘩は、最後、馬乗りになってどつき倒した方が勝ちだよな。ということは、ダウンも、相手が転がっている時の打撃の制限もなしか。 まぁ、こういった話である。つまり、佐山シューティングは、UWFの出発点から遥か彼方にずれていっちゃったんである。 ではそもそものUWFとは何だったんだろうか。答えは単純。「プロレスを、真剣勝負でやるために、ルール化したもの」である。 最強の格闘技、という理想を追い求めていた佐山も、もとを正せば、要するに新日本のプロレスラーである。だから彼の革命も、新日のプロレスを、レスリングやキックなど他の格闘競技を参考に、ルールに落とすことから始まった。かくしてロープ・エスケープとか、拳での顔面殴打禁止とかいういかにもプロレス的なモノが組み込まれたルールが出来上がっていったのだ。 というところで、話は、前田UWFの集客問題に戻る。 なぜ、前田Uは、(大体において)真剣勝負をやりながら、満員神話を続けていくことができたのか。ここまでくれば理由は明らかだろう。それは、プロレスの面白さを組み込んだ、しかし、曖昧さのないルールを持つことができたから、である。別の言い方をするなら、暗黙のルールとかいう選手同士の「演技」精神によるのではなく、明文化されたルールを工夫することによって、つまり普通のスポーツと同じ手段をとることによって、面白い試合の提供を行った初のプロレス(というか、総合格闘技)団体、それがUWFだったのである。 こう考えれば、何故「最強」という神話に包まれた団体が、ロープ・エスケープやダウンのカウント制というより人工的・スポーツ的な方向にルールを変更した(これが前田Uの、第一次Uからの、最大のルール変更であった)かがはっきりとわかってくる。おそらく、前田日明は、興業主としての責任感から、無意識のうちに、最強ではなく、スポーツとしての確立という方向を選択したのだ。そして、これこそが、20世紀初頭からプロレスをメルヘンの世界に閉じこめてきた呪縛を解くただ一つの鍵だったのである。 前田は、第一次UWF末期「仲間を食わせていくために」あえて佐山と決別した。皮肉な話だが、世俗に引っ張られることによって、前田は、ピュアな佐山が陥いらざるを得なかった最強幻想という罠をくぐり抜けることができたのだ。 残念ながら、話はここでは終わらない。 前田UWFの寿命は、88年5月から91年1月までの僅かの期間に過ぎなかった。 なぜ前田Uは崩壊したのか。それは、また、別の話になる。 |