四角い電脳ジャングル 第五回女たちのプロレス 浜口京子が優勝した。「燃えてるか〜」のあのアニマル浜口の愛娘が、今年(97年)の女子アマレス世界選手権を制したのだ。1987年に世界選手権が始まって11年。山口美憂の優勝はあったものの、ヘビー級では日本人初の快挙だ。 ただし、これはあくまで「選手権」という枠組みでの話。実は、選手権開始に先立つ1986年、一人の日本人プロレスラーが女子アマレス初の世界大会で優勝している。全日本女子プロレスで新人時代を過ごし、その後草創期のFMW女子部門でも活躍した天田麗文である。もっとも当時の女子アマレスの状況はお寒い限りであったようで、国内予選で70kg級に参加した選手は天田の他には一人だけ。肝心の世界フェスティヴァルにいたっては、天田一人しか参加者はおらず、不戦勝で金メダルというもの悲しい状況だったらしいが。 天田がアマレスの世界大会に出場した経緯は、井田真木子の「プロレス少女伝説」(文芸春秋社)に詳しい。1985年、日本で初めての女性専門のアマレス・クラブである「代々木クラブ」が設立された。クラッシュ・ギャルズのブームの最中であり、予想通りそのクラブには「チコさん命」の少女たちが多数参加した。その流れの中で、全日本女子プロレスに重量級の選手を大会に出してほしいと声がかかり、入門二ヶ月に過ぎなかった天田に白羽の矢が立てられたのである。 つまり、日本の女子アマレスは、女子プロレスを基盤として発進したわけだ。 86年に初の世界大会、ということでもわかる通り、女子アマレスの歴史は実は非常に浅い。理由は単純であり、「激しいスポーツは女性にはできない」という偏見が、ついこのあいだまで、まかり通っていたからである。60年代までは、格闘技はおろか、サッカーも、中長距離走も、激しすぎて「女性向き」ではないとされていた。現在、柔ちゃんの人気ですっかりメジャーとなり、神取や矢樹などの多数の女子プロレスラーを生み出している女子柔道も、世界で始まったのは70年代始め。日本大会が行われるようになったのは1978年になってからである(ちなみに言えば、女子柔道が日本の「お家芸」ではないのは、競技形式では世界に遅れをとっていたからである)。 とはいえ、歴史上ずっと女性が格闘技から遠ざけられていたわけではない。それどころか、初期農耕社会においては、女性同士の相撲・レスリングはかなり一般的なものであったと思われるふしがある。南米、アフリカ、東南アジアなどの初期農耕社会では、豊饒儀礼として、女同士の相撲が幅広く行われているし、日本書紀や中国の文献においてもそうした事例が散見される(そもそも、日本でも、中国でも、相撲という字の初出は女相撲である)。こうした女性の格闘技は、しかし、歴史時代に入るに連れて次第に見られなくなっていく。日本の女相撲も正式な相撲節会には登場しないし、古代ギリシアのオリンピックでは、そもそも全ての競技が男性のみに限られていた(女性にも激しい運動を強要したのはスパルタくらいのものである)。 理由の第一は、やはり、格闘技が、戦士階級と結びつけられ、男性の力の象徴とされていったことであろう。神事・祭礼ではなく、練兵や力比べが表にでるに従って、女性は、表舞台から去ることを余儀なくされた。そして、それと共に、女性の格闘技にはもう一つスティグマが付けられることになる。「性的な見せ物」という烙印である。 神事の聖性が欠落した中で行われる女同士の取っ組み合いは、結局、男性の性を意識した視線に曝されざるを得なかったのだ。 一般名詞ではなく、固有名詞としての女相撲は、江戸期に始まっている。それは大柄な娼婦を集めての見せ物であり、場合によっては男との絡みもあり、また怪力自慢なども合わせて行われていた。位置的には欧米のサーカスの怪力女や曲芸師に近いものだと考えてもいいかもしれない。いずれにせよ、当時既に大名までも巻き込んだエスタブリッシュされた興行としての地位を確保していた男の相撲に比べ、それは多分に淫靡な雰囲気を漂わせるものだった。 この伝統は、明治以降にも引き継がれ、東北を中心に60年代まで興行が続くことになる。井田真木子は、先に挙げた本の中で、この東北の女相撲についても詳しい取材を行っている。それによれば、明治以降の女相撲の太夫(男性でいう力士)は農村の女性が中心であり、歌・踊りを取り入れるなど芸能色を強くもっていた一方で、江戸期にあった淫靡さは殆ど払拭されていたという。彼女は、続いて、この女相撲の伝統が現在の日本の女子プロレスの基盤になったのではないかと述べている。 女相撲の太夫から女子プロレスに転身した例はないし、また、女相撲の客と女子プロの客が重複していたという証拠もない。ただ、彼女が書いていることの中で、女相撲から女子プロレスへという流れを強く支持しているものが一つある。それは、どうやら、農村の女性達にとって、女相撲ほど心ひかれ、自分を解放してくれるものはなかったということだ。 淫靡な雰囲気がなくなっていたとはいえ、やはり観客の主体はそうした興味をもった男性客だったのだろうというのは想像に難くない。しかし、女相撲は同時に、自己表現の道を閉ざされていた女達に自由の風を感じさせるものでもあったのである。 日本の女子プロレスは、GHQの影の協力とテレビという強い味方を得て当初から順調なすべりだしを迎えた男子プロレスとは大きく異なり、苦難の歴史を歩んできた。1968年に現在の全日本女子プロレス興行が誕生するまで、女子プロレスは、いかがわしい見せ物として大きな興行場から追い出され、キャバレー回りをするしかない状況だったのだ。そういう中で、いかにレスラー達の「身持ち」をよくさせ、芸能としての社会的地位を上げていくかが大きな課題だったという。ちょっと前まで残っていたかの有名な全女の三禁、酒ダメ、煙草ダメ、そして男ダメというルールの背景にはこうした歴史がある。 歌と試合の二本立て、という全女の方針は、テレビと結びついて、マッハ文朱を始めとしたスターを生み出していく。だが、それでも、観客席には未だ男性が数多く残り、酔っぱらったオヤジが下卑た野次をとばすことも多い世界だった。それが完全に変わったのが80年代半ばのクラッシュ・ギャルズのブーム、もっと正確に言えば、女子プロレス界最大のカリスマ、長与千種の登場である。長与のブレイクにより、会場は、「チコさ〜ん」と叫び、足を踏みならす女の子たちに占拠されることになる。女がやり、そして女だけが見るプロレスの誕生である。 これは、どうしても、宝塚を思い起こさせる。女性による女性のための芸能。だが、この宝塚化によって、女子プロレスは性というスティグマからようやっと完全に抜けでることができた。今や女子プロレスは、男の視線を意識せずに、女性が自分の可能性を感じ、表現できる場となったのである。丁度、宝塚が、関西地区の「良家」の子女達の憧れの場であるように。 女相撲によって示された可能性は、長与のカリスマ性に集った少女達が会場から男性客を放逐したことによって、成就したのだと言えよう。 全日本女子プロレスは、その後、加速度的に試合内容を高度化させていった。男子プロレスを上回る高度な大技の連発。年がら年中顔を付き合わせている仲間同士ならではのマット上での濃密な感情のやりとり。それは、1930年代末の誕生以来、常に男子団体の初っ切りという位置を担わされ、しかるが故に、男性客の視線をひたすらに意識したセックス・シンボル路線を歩まざるを得なかったアメリカの女子プロレスとは鮮やかな対照を見せるものであった。 だが、こうした宝塚路線は、クラッシュ・ギャルズの引退と共に大きな転機を迎えることになる。クラッシュに次ぐカリスマを育てられなかった全女は、ユニヴァーサル・レスリングという今は亡き男子プロレス団体に女子の試合を貸し出すという決断をしたのだ。そして、一方では、FMWが、日本の男子プロレス団体としては初めて女子部門を立ち上げていた。 かくして女子プロレスは再び男の視線に曝されることになった。だが、結果として言えば、女子プロレスが再び性的なスティグマを負うことにはならなかった。全女がそれまでに築き上げていたプロレスのレベルは、既にそこらの男子団体を遥かに上回るものになっており、男子プロレスのファンは、彼女達を、女という以前に、プロレスラー、トップ・アスリートとして認識せざるを得なかったのである。 そうして、女子プロレスは、第三段階に入ることになった。男性の視線を意識せねばならなかった時代から、女性による女性のための宝塚的な芸能団体へ、更には、「女子」という看板が単なる性別しか意味しない「ただの」プロレス団体へ。 この動きを下支えしつつあるのが、冒頭にも触れた、女子のアマチュア格闘技の発展である。柔道、アマレスに加え、キックやシューティングと、女子選手の活躍する場はどんどんと広がりつつある。アマチュアの実績を持つ選手が増えるに連れ、女子プロレス団体は、ますます通常のスポーツ団体へと変貌を遂げていかざるを得ないだろう。 長与は、芸能色の非常に濃かった全女の試合に革命を起こした。そこには、彼女の類稀なる表現者の資質ということに加え、それまでの女子プロレスは素人の女の子がポッと入るのが普通で試合のやり方は1から10まで全女の内部で教えていたのに対し、長与は入社前から空手の技術を修得していた、ということも大きく影響しているハズである。だが、今後は、いやもおうもなくアマチュア格闘技経験者が入門者の多くをしめるようになっていくだろう。長与以前とは、根底的に、環境が異なっていくわけだ。 既に兆候は出つつある。乱発される異種格闘技戦。女子番ヴァーリ・トゥードであるL1の開催。そして、UWFルールに酷似したGAIA改ルール(長与が現在主宰している団体のルール)。男子プロレス、あるいは総合格闘技団体の動きとパラレルな潮流が、既に、女子の世界でも当たり前になりつつある。 こう見てくると、全てが万々歳のようだ。 だが、しかし、成功の影には切り捨てられていく部分もある。女子プロレスの一般化は、一方で、小人プロレスが次第に消滅させられていく過程でもあった。 かつて、女子プロレスがキャバレー回りをしていた時、小人プロレスは女子プロ興行の一つの柱であった。そして、かつて女相撲が抑圧された女たちの解放の場として意識されていたように、小人プロレスも、小人達が、自らが表現することを通じて、自由になり、誇りを持てる場所として機能していた。「劣った性」であれ、「劣った体型」であれ、それが人々に笑いや感動を与える表現の手段となる限りにおいては、逆に、個性として武器として「アイデンティティ」として意識されてくる。その意味では、女子レスラーも、小人レスラーも、同じ位置に立てていた部分があった。 しかし、女子プロレス団体が、特別な人々ではなく、ごく普通にスポーツをやっているごく普通の人々の団体になってしまえば、小人達の居場所はなくなる。彼らは表現の場を失ってしまう。 何事もデメリットなしには動きはしないのだ。 |