ed.karasawa.gifre アジア・カルチャーの普及に本当に必要なことは
 

 まず、松村氏はこの本の中で僕のアジア認識の不足、もっとはっきり言えば無知が露呈されていると指摘している。『頭はどこへいった!?』という作品の中で
》犬の声が“ブーブー”と訳され、『ブタかと思った』というコメントがある。
》だが、原画には“ブロー、ブルー”とあるのでこれはナンセンス。
 また、タイマンガのタイトル表記の発音にも誤りがある、と言う。
 誤りは素直に認めて謝罪、訂正することはやぶさかでないが、しかし、この訳に関しては、ちゃんと表記してあるように現地出身のタイ人(現在は日本に帰化している)の手をわずらわせている。ブロー、ブルーは日本語表記ではブタの“ブーブー”に当たると翻訳者は判断してそれをブーブーと訳し、そこを押さえた上で“ブタかと思った”というツッコミを入れるのは、読者の感覚にそったツッコミとして妥当と考えている。文意からみて評者の松村氏はタイ語が堪能でいらっしゃるようだが、先にも述べたように、翻訳に関してはネイティブのタイ人のチェックを通しているし、誤訳というなら、読者の理解の便宜を考えて、内容とまったく異なったセリフをおいた箇所もいくつもある。そういうところへの指摘がないのは何故なのか。

 また、『お化けと闘いましょう』の中で、ゾンビとなった妻に「生まれ変わったらまた夫婦になろう」というセリフを言う亭主を“ノンキ”と表現したことに対し
》タイ人は輪廻思想を共有しており、こういう発想はごく自然と言える
 と松村氏は言う。しかし、タイの輪廻思想がこういった類のマンガの中で表現されていることは、少なくとも僕が目を通した300冊以上のタイマンガ中、宗教ネタ以外ではまず、皆無に近い。ごく自然なものではありえない、というのが僕の判断である。さらに言えば、ここで僕が言う“ノンキ”というセリフは、その話のそれまでのゾンビ妻のあばれぶりの凄さを受けての感想である。殺された妻をゾンビにしてよみがえらせ、彼女自身に彼女を殺した連中に対する復讐をとげさせる、というすさまじいストーリィの中で、この亭主は何ひとつ積極的な行動をとっていない。そして、最後に「生まれ変わったらまた会おう」では、いくら輪廻思想が広まっていても、ノンキという感想は抱いて当然だと思う。
 考えるに、この松村氏という評者は、タイには詳しくても、こういうマンガの読み方というものを理解していないのではないか。もうひとつ指摘されている、森林資源保護の標語になぜツッコミを入れないのか、という指摘にも、
「僕には面白いと思えなかったから」
 としか言い様がないのである。何をギャグとして取り上げるか、の選択の自由は監修者にまかせられているはずだ。



 まあ、しかし、このような個別の指摘に対する返答はむなしいことだと思う。意見の相違、個人的考え方の差はいくら埋めようとしても埋まらない。ただ、松村氏がこの評の冒頭で述べている
》あちこちに編者の寸評や感想が挿入されているのは、うるさい
 という意見に関しては、この人がこの本のコンセプトをまったく理解していない、または、マニアによくある自分の知識自慢に陥っている、という可能性が大であると思う。
 もともとの作品を大事にして、ツッコミなどをいちいち入れるな、という意見は、僕が貸本マンガを復刻した当初から、マニアの人々からなされてきた。その批判の根底にあるのは、
「オレはそんなツッコミがなくとも十分に楽しめるのだ。人を素人扱いするな」
 という自尊心である。
 僕に言わせれば、そのような増長漫が、これまで貸本マンガをしてすでに過去のものという認識を世間に抱かせてしまったものなのである。世間から一度姿を消したものは、消したなり、忘れられたなりの理由というものを必ず持っている。それを再び世間に浮上させよう、という時には、その理由にきちんと目を向け、それでもあえて今、その復活を企画した、その理由づけを必要とする。言わば、現代の目で見た新しさを必要とする。これがない復活は、単なるレトロ趣味の懐古に終わり、決してムーブメントたりえない。
 これまで多くのマニアが行ってきた貸本マンガ復刻が、単なる趣味の復刻に終わり、話題にもならなかったのは、そこにマニアの視線しかなく、一般読者の好奇心を刺激する理論と、手に取ってみるまでの手引きが存在しなかったからなのである。
 僕は、多くのマンガマニアたちの、その、「オレたちは普通の連中と違うんだ」的なプライドを自著から排除しようとした。そして、初めて貸本マンガを目にする人々への手引きとして、詳細なツッコミを作品に付与した。これがあってはじめて、貸本マンガという、すでに30年以上も前の作品を今の視線で見ることができるようになった、という声があちこちからよせられた。
 現在、僕の『まんがの逆襲』は、こういうマニアックな本としては異例の4刷まで行っている。この冬には文庫本として出版も決定している。これが、ただの貸本マンガの復刻版だったら、こうは絶対にならなかったろう。

 比較としてあげるのは例が大きすぎるかもしれないが、明治時代、海外小説を翻訳して国民に普及させようとした黒岩涙香は、翻訳にあたって逐語訳をとらず、作品の中の風俗習慣や地名、人名などを日本のそれに置き換える、ということを行った。彼の手によって『モンテ・クリスト伯』は『岩窟王』となり、エドモン・ダンテスは団友太郎、モリエール氏が森江氏、ビルフォール検事が 蛭峰検事と名を変えられた。これを、「原作をこのように変更するのはうるさい。邪魔なだけである」と言ったものはない。明治初期の日本国民に海外文学を抵抗なく受け入れさせるための工夫として、みな、それを理解した。これくらいの手立てを用いねば、なじみのない文化を他国に根付かせることなど出来はしない。



 松村氏が僕の寸評を邪魔だと言うのは、英語が堪能な人が「日本映画の字幕というのは画面を汚す、邪魔なだけのものだ」と文句を言う(実際にこういうことを言った某有名作家がいた)のと同じことのように思える。そこには、一般大衆の理解という概念が抜け落ちているのだ。文化エリートという自我がこういうことを言わせているのではないか、と僕は松村氏のためにこれを惜しむ。松村氏の本業を僕は存じあげないが、僕の経験では、音楽のような、ある程度皮膚感覚のみで世界流通が可能な世界にいる人に、こういう半可通を言う人が案外多い。アジア映画が日本で市民権を得るために、どれほどの長年月がかかったか、考えてみるといい。ホイ兄弟の『半斤八両』に『ミスター・BOO!』などという日本語タイトルをつけた輸入業者の苦労を思ってみるといい。映像は音よりはるかに、文化的障壁が高いものなのである。マンガもまたしかり。まして、アジア諸国から日本へ、という逆ルートをとるにおいておや。
 こういう状況下において、多少繁雑のそしりを受けようと、各所にツッコミ的に寸評を加える僕のやり方は間違ってはいないと確信するし、それは各出版マスコミでの僕の本の評価である程度答えが出ていることだと思う。

 松村氏のアジア文化に対する深い知識に関しては尊敬の念を表明するが、氏の方法論でいく限り、アジアのマンガ文化を日本に輸入、定着させることは出来ないと思うのである。

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